法学部とフェミニズム
2014/10/23
それでは始めましょう。
このクラスの法学部の皆さんは3、4回生が多いのですよね。
リクルートスーツの女性が何人かいますね。
4回生の人は手を挙げてみて下さい。
ああそうですか、かなり多いですね。女性のリクルートスーツはパンツですか、スカートですか。やっぱりスカートが多いのですね。教室では、皆さんはパンツなのにね。やはり女性の正式な服装はスカートだと感じるのでしょうか。リクルートの調査によるとパンツスタイルは約4分の1だそうですが、合格した人の割合が4分の1になるのかどうかはわかりませんが。
さて、法学部は他学部に比べて保守的であるという話を聴いたことがありますか。そもそも大学というのは法学部からつくられていきます。
関大の場合は明治19年(1886)関西法律学校としてスタートしました(2006年120周年)。国立大学も法学部からできていきます。それは国家統治をスムーズにするための少数の逸材を育成し、支配と統治機能のための知識とスキルを鍛えたのです。そんな法学部ではマイノリティやアンチ権力のことを視野に入れる科目などにあり得なかったわけです。また大学がこれほどに大衆化するなんて考えられもしなかった時代ですから、少数の支配者の統治権限を次世代に引き継ぐための育成機関だった訳です。東京大学は明治10年(1877)4月法・理・文と医学部を設置しました。日本の場合は法学部(法律家の養成)、医学部(医師の養成)の専門職を養成することが大きな役割でした。その権威に満ちた法学部に現在「法女性学」というフェミニズムのこういう科目が設けられているというのは、大きな時代の変化を感じます。女性学は、学部としてはもっとも新しい「社会学部」から産まれているケースが多いです。
世界で最も古いボローニャ大学
世界の大学をちょっと考えてみましょう。世界で一番古い大学はどこでしょうか。11世紀・12世紀頃イタリアの”Alma Mater Studiorum” (今のボローニャ大学1088年に開設)がそうだといわれています。1209年にイングランドのオックスフォード大学(同大学より1209年にケンブリッジ大学が誕生)、フランスのパリ大学、スコットランドのグラスゴー大学などです。この中世ヨーロッパにおいては神学部(キリスト教聖職者の養成)がスタートでした。
なぜヨーロッパの大学は神学部がスターとだったかというと、中世から近代へまたがる時期に起こることと関係があります。起こったとはいろいろありますが、その中でも悪名高いのは「魔女狩り」「魔女裁判」です。魔女だと汚名を着せられ、イタリア、スペイン、フランスなどヨーロッパ全域で何万人は知れず、殺害された女性たち(男性もいた)は、実は裁判という形式を踏んでいました。焼き殺され、水責めで、車引きで殺されるに先んじて、それを取り仕切った神官と法律学者がいたのです。中世から近代への移行には医学、薬学、工業化学などが大変革を遂げますが、それは女性が中世までの村で預言者的、医療者的役割を果たしていたその役割をしゃにむに奪い取ったということです。
それをやり遂げたのが中世の堕落した宗教であり、その意味で神学部に続いて創設される法学部の法学者が果たす欺瞞性には現在に通ずるものも感じます。いまでこそ「でっち上げ裁判もいいとこだ」とか「昔はひどかったのね」と済ますことはできるのでしょうが、中世キリスト教ローマ教会と法学者の犯した罪は深いものです。
「魔女裁判」を支えたもの
ミシュレの『魔女』(岩波文庫にあります)は有名です。シュレは言います。『「魔女」はローマ教会が産んだ深刻な絶望から生まれたのだ。『魔女』はローマ教会の犯した犯罪である」と。「化け物じみた思想的倒錯のために、中世は人間の生身の女性を、不純なものとして眺めていた。「聖処女」は「聖母」としてよりは、処女として称賛され、現実の女性の地位を高めるどころか、逆にその地位を低めてしまったのであり、その理由は、人々は純潔の問題をめぐっての煩瑣哲学の道に迷いこみ、ただやたらと末梢的ででたらめな議論にふけるだけのことになった。女性そのものも、さいごには、このおぞましい偏見を持ち、おのれを汚れたものだと思いこんでしまった。女はお産をするために身を隠すようになった。ひとに恋すると顔を赤らめ、人に幸福を授けると顔を赤らめるようになった。(略)・・・その女性がほとんど、存在すること、生きること、生活のさまざまの条件を果たすことに、ゆるしを乞うようになったのである。羞恥心のあまり、へりくだった殉教者となった女は、われとわが身に刑罰を加え、ついには、脳髄よりも三倍も神聖で、かつては礼拝の対象であったこの腹部をひとの目から隠し、もともとなかったもののように装い、ほとんど抹殺しようと欲するまでになったが、男性という神様は、この腹から生まれるのだし、永遠に生まれ返るのである」(文庫版 上巻p.190~191)と。
さらにミシュレはいいます。「ところが彼女たちは不屈の憐憫の情で、この宗教を養い、まだ生き続けさせたのである。しかしカの女性はなんという犠牲を払ったのだろう」と。魔女とは、「『女性』に固有の「精髄」とその気質が利用された。女性は「妖精」として生まれる。規則正しく反覆される気分の高揚をつうじて、女性はシビュラ(預言者)である。愛によって、彼女は「女魔法使い」である。産婆であった女性は村の医者であった」と。ところが力強く活力ある宗教が、やがて失墜し、病に陥り、中世の暗黒に包まれるや、宗教に魅惑と後光とを与えた女性のすばらしさが魔女だというひと言ですべて、奪い尽くされた。ところが彼女たちは不屈の憐憫の情で、この宗教を養い、まだ生き続けさせたのである。しかし、かの女性はなんという犠牲を払ったのだろう」と。
つまり、焼き殺された魔女たちが宗教を読み返らせたといっているのです。「こうした全ての宗教について、『女』は母であり、やさしい保護者でありまた忠実な乳母なのだ。神々も人間経ちと同じで、彼女の乳房で育てられ、そこに抱かれて死ぬのである」、ともいっています。
私は、アメリカのフェミニスト研究者バーバラやディアドラなどとともに、女性の中世までの村での預言者的、医療者的役割が中世の堕落した宗教により、魔女にしたてられ、魔女裁判という欺瞞により、焼き殺されたのだと思います。そしてミシュレが言うように、魔女とされて虐殺された女性たちの犠牲のおかげで、「堕落した、病に陥った宗教を生き伸びさせた」という主張に納得です。
『新しい魔女』狩りの時代をつくらないように
森島恒雄『魔女狩り』も重要な一冊です。『魔女狩り』はこう結んでいます。今後とも狂信と『新しい魔女』と政治と結びついたとき現出する世にも恐ろしい光景を、出現ささないようにしよう!と。
森島恒雄『魔女狩り』にも、「この迷信と残虐の魔女旋風が、中世前期の暗黒時代においてではなく、合理主義とヒューマニズムの旗色あざやかなルネサンスの最盛期において吹きまくったということ、しかもこの旋風の目の中に立ってこれを煽り立てた人たちが、無知蒙昧な町民百姓ではなく、歴代の法皇、国王、貴族、当代一流の大学者、裁判官、文化人であったということ、そしていまひとつ、魔女は久遠の昔から、どこの世界にもいたにもかかわらず、このような教会や国家その他の公的権威と権力とが全国的に網の目を張りめぐらしたこの上なく組織的な魔女裁判によって魔女狩りが行われたのはキリスト教国以外になく、かつこの時期(1600年をピークとする前後3,4世紀間)に限られていたこと、―これはきわめて特徴的な事実ではあるまいか。
魔女裁判の本質は、結局、この「地域」と「時期」との関連の中にある(岩波新書p.7)」。また結びのことばは「しかし、『新しい魔女』はこれからも創作され、新しい『魔女の槌』が書かれるかもしれない」になっている。今後とも狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景を、出現ささないようにしよう!という力強いメッセージが胸を打ちます。
もっと古い大学ではインドに遺る世界最古のナーランダ仏教大学(建学427年)がありますし、イスラム教の大学では現存する最も古い大学はアル=アズハルで、エジプト・カイロにあります。
アル=アズハル・モスク(971年建立)に付属するイスラム神学校(マドラサ)アル=アズハル学院として988年に設立されました。アズハルとは「最も栄えある」の意味で、創立当初からの伝統で、イスラームの学問を志す者に対して、誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時、出欠席随意、修業年限なし、という3原則を守っていたということです。誰でもといっても女性は禁じられているというのは、イスラム教の女性差別に根ざしています。
私が実際訪れたイスラム教の大学では、トルコのコンヤはイスラム神学校が博物館になっています。
コンヤはトルコでも最も保守的な町といわれますが、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の重要な巡礼地。イスラーム哲学・思想にも多大な影響を与えたメヴラーナの定住地で、その霊廟がメヴラーナ博物館となっています。デルヴィーシュ(イスラーム神秘主義僧)によるセマー(イスラーム神秘主義の回転舞踊)で有名です。
私たちは西洋文化だけから、大学の情報も確保しているのですが、宗教がキリスト教だけでないということでは、宗教に基盤をおく大学の発祥は、ボローニアだけではないのです。
大学とフェミニズム
男性の視点から構築された既存の学問を、女性の視点からとらえ直そうとする新しい学問の登場は、やはり1970年代に、アメリカに待たねばなりません。性差別意識や男性中心の視点にとらわれた既存の学問のあり方を批判し、女性の視点から問い直す研究は女性解放運動と深い結びつきをもち、学際的性格をもちます。
「フェミニズムの風は西からふいてきた」といわれるように、カリフォルニア大学はフェミニズムのメッカといえるでしょう。ウーマンリブもメンズリブもカリフォルニアが発祥の地でした。1967年にフェミニストスタディーズの最初のコースが現れてから、今ではすべての大学でフェミニストスタディーズコースがあります。人類の半数を占める女性たちは、従来無視されてきた女性の視点から社会現象を分析し直そうとしたのです。男女平等社会を実現するために、フェミニストスタディーズ(ウーマンズスタディーズ、ジェンダースタディーズ・女性学)は、今や各論の時代を迎えている。政治に、教育に、労働に、起業に、まちづくりに、高齢社会のあり方に、アートに、音楽に、小説に、年金に、子育てに、性意識に、企業の社会的責任においても、です。
次回は、女性差別撤条約についてです。
学生の意見や反応
- 私はパンツスタイルのリクルートスーツです。これで合格しました!
- 昨年の受講生に勧められてとりました。女性に焦点を当てる講義が少ないので、とりました。
- 私は将来働き続けたいと思っています。周りの男性の友達は、結婚したら仕事を辞めて家事をしてほしいという人が多いのです。どうしたら女子絵が自立して社会に生きていけるのかヒントをほしいと思っています。
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