与謝野晶子と女性参政権運動
与謝野晶子と歌集「みだれ髪」
前回のブログでは、4月10日(1946年)が、わが国で女性が初めて参政権を行使した記念の日であり、それから75年経たが、現在の衆議院議員の女性国会議員数は46人、比率は9.9%で、若干しか増えていないなどのことを書きました。世界のジェンダーギャップ指数(2021年度)のなかで日本の女性の政治参加率はことさらに低く156か国中「政治」分野は147位だと記しました。今回は、日本の女性参政権の歴史を大阪・堺出身の与謝野晶子の婦選運動と合わせて、振り返ってみます。
同じく人なる我ら女性、今こそ新たに試す力
いざいざ一つの生くる権利、政治も基礎にも強く立たん
5月29日は大阪、堺の生んだ「平和と平等の姉」与謝野晶子の命日です。与謝野晶子は私の魂の星でもあります。64歳で亡くなった1942年から80年になります。与謝野晶子は選挙権を行使できなかったわけです。命日の日には、今年もゆかりの覚応寺で白桜忌が営まれるでしょう。明治・大正、戦前の時代では、日本の女性は家制度と理不尽な性差別の中でもがき、「自分を生きる」という選択はほとんどできませんでした。そんななか与謝野晶子は誰よりも自分を活きる意欲をもやし続けた人だと思います。そのことがあるときには、奔放な情熱の歌人といわれたり、反逆の詩人とののしられたり、新しい時代の象徴として尊敬もされたのです。11人の子の母でありながら、「母性に埋没するなかれ」と母性保護論争の一翼を担い、女性の自立、女性の参政権や労働運動にも積極的に参加してきました。婦選の活動資金に短冊に短歌を書き、それを販売して資金にしたそうです。11人を出産した晶子が「産屋物語」(与謝野晶子評論集より)で書いているように「全身の骨が砕けるほどの思いでうめ」きながら短冊を書いていたそうです。文字も曲がっていたそうです。晶子は1930年第1回全国婦人参政権獲得同盟に「婦選の歌」を発表します。これは行進曲です。デモで歌うのです。90年を経て今尚、とても新鮮な歌詞です。
「婦選の歌」
- 同じく人なる我ら女性、今こそ新たに試す力
いざいざ一つの生くる権利、政治も基礎にも強く立たん - われらは堅実、正し、清し、 女性の愛をば国に擴(ひろ)む
人たるすべての義務を担い、賢き世の母、姉とならん - 男子に偏る国の政治、久しき不正を洗い去らん
庶民の汗なる国の富を 明るき此の世の幸に代えん - けわしき憎みと粗野に勝は 我らの勤労、愛と優美
女性の力の及ぶところ はじめて平和の光あらん
とあります。生きる権利の確立、充実は、女性が政治に本気で参加してこそ、はじまります。女性に平等な社会や政治がここから始まります。そして選挙はもうすぐ、そこまでやってきています。
われらは堅実、正し、清し 女性の愛をば国に廣む
人たるすべての義務を担い、賢き世の母、姉とならん
日本の婦選活動のはじまり、それは高知県の区議会選挙で始まりました。
日本で初めて参政権の男女同権を主張したのは、土佐の高知に住む楠瀬喜多さんでした。士族の未亡人で、郷土出身の板垣退助」がつくる「立志社」に通っているうちに権利意識に目覚めました。明治11年(1878年)高知県で行われた」最初の区議会銀選挙で、戸主である自分は「おなごといえども」選挙権があるはずと申し出たのです。しかし、東京の内務省に問い合わすも「女戸主には選挙権なし」といい、当時に新聞は「奇怪なる女子あり」(東京日日新聞)、「民権ばあさん」などと報道しました。近代日本の政治の季節が始まるかと思われましたが、時の流れとは反対に女性への政治への参加は一切締め出される方向が出てきました。明治33年(1900年)3月、治安警察法が制定され、その第5条で、「女子ハ公衆ノ合同スル政治集会ニ若シクハソノ発起人タルコトヲ得ズ」とすべての政治への参加が阻まれてしまいました。以後、「治安警察法」第5条の改正・撤廃が繰り返し要求されましたが、その後も、苦闘の時代が続くのです。女性の参政権は無視され続け、女性の人権は、男性の人権に包含されているという考え方が主流を占めていたのです。
男子に偏る国の政治、久しき不正を洗い去らん
庶民の汗なる国の富を 明るき此の世の幸に代えん
第一次世界大戦後、女性の社会進出はますます急激になり、これが参政権要求の底辺を作っていきました。大正13年(1924年)には、婦人の政治活動団体が大同団結して婦人参政権獲得期成同盟会を作りました。これは極めて重要なことなのですが、時を同じくして全国公娼廃止期成同盟会が結成されています。婦人参政権と廃娼は女性の人権にとって同じ根っこの問題なのです。昭和5年(1930年)無産婦人団体を含む婦選7団体により、全日本婦選大会が開かれ、与謝野晶子作詞、山田耕筰作曲「婦選の歌」が披露されたのでした。
その後「婦選獲得同盟」は毎年全国規模の大会を開いて、運動を大きくしていきました。しかし、やがて空行く雲のただならぬ気配はここにも影を落とすのです。たびたび軍事費の膨張を批判してきた「同盟」は、内部対立などもあり、ついに解散してしまうのです。そして昭和16年には太平洋戦争が起こり、さらに次の年には愛国婦人会、大日本連合婦人会、大日本国防婦人会が大日本婦人会に統合され、全国2千万人の戦争協力婦人が組織されるにいたりました。平和を希求する婦人参政権運動の矢が折れたとき、戦争が始まってしまったのです。そして昭和20年(1945年)8月15日、敗戦が決まりました。ポツダム宣言では日本の徹底的民主化を要求しており婦人参政権もその一つでした。
市川房枝
けわしき憎みと粗野に勝は 我らの勤労、愛と優美
女性の力の及ぶところ はじめて平和の光あらん
市川房枝や赤松常子らを代表とする戦後対策婦人委員会が政府及び連合総司令部(GHK)に対し、女性に参政権・被参政権を与えるよう要望書を提出。当時日本ではまだまだ時期尚早との声がありましたが、12 月17日衆議院議員選挙法が改正され、「20歳以上の男女に選挙権、25歳以上の男女に被参政権を」と決まりました。翌昭和21年(1946年)4月10日戦後初の総選挙が行われ、婦人の立候補者89人中 39人が当選し、この39人の女性議員は大奮闘しました。新憲法の制定、民放の改正、労働基準法、児童福祉法の制定などなど、旧体制の改革のために大いに貢献しました。女性参政権を「マッカーサーギフト」などと揶揄する人もなきにしもあらずですが、決してそんなものではありません。粘り強い100年の女性たちの闘いの下地があればこそ果実は実ったのです。「与謝野晶子の婦人参政権の歌」に込められた願いは、今尚私たちの課題です。「婦人参政権の歌」は100年経ってなお新鮮です。女性に平等な社会や政治がここから始まります。そして選挙はもうすぐ、そこまでやってきています。
ベアテ シロタ ゴードン
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