フェミニズムとわたしと油絵(2013~2023)(その7)―「フェミニズム・アクティビスト金谷千慧子のプロフィール」
3月7日、退院して一か月振りで家へ帰りました。いろいろメールで励ましてくださった皆様、本当にありがとうございました。まだリハビリ中ですが、手術以前の痛い痛いの毎日に比べると極楽です。
病院入院中は、出版用の原稿を修正していました。筆者紹介という文章も書きましたが、その続きに「フェミニズム・アクティビスト金谷千慧子のプロフィール」というのをつけ足そうと思い、以下の文章を書きました。出版より先になりますが、ブログで紹介させていただきます。
フェミニズム・アクティビスト金谷千慧子のプロフィール
1 疎開先で「めろんこ」と
第2次世界大戦末期、昭和20年3月、大阪大空襲の数日後、父親を残して石川県の田舎に疎開しました。豊中から見る大阪市内の夜空は真っ赤で、足がわなわなと震えました。
ところが北陸の田舎での女性の生き方には「イヤ」と思うことが数々ありました。早く逃げ出さないとという気持ちは大阪生まれの母も同じでした。女の児は「めろんこ」と呼ばれます。蔑視語です。「めろんこのくせに」(めろんこだーに)と何度も言われたものです。「めろんこだーに」とはやしたてられ、樹から飛び降り、大けがをしたこともあります。盆踊りは村の最大イベントですが、踊りの輪は二重になっていて、中の輪には嫁候補を探すおばあたちが輪の中心を陣取って年頃の娘を吟味します。その後矢継ぎ早に祝言があります。20歳までに嫁に行くことが村の常識です。子どもやその他は外の輪を踊ります。夜が明けるまで踊ります。
田舎を早々に逃げ出して奈良県で小学校時代を送りました。宿題でもないのに、初夏の緑豊かな木々をその匂いまで吸い込んで絵を描いていました。学校ではよくほめてもらいました。表彰状も増えました。調子に乗ってきました。絵が好きだった父親は私をよく写生に連れて行きました。私は「うまいなー」とみていただけ。でも作文や工作、走りなどそこそこできたので、絵を描くことを仕事にとまでは思わなかったです。けど大人になったら何になろう?といつもそう思いながら日々を過ごしていました。星空を眺めて天文学者になりたいと思ったり、詩人になりたいと思ったり、学校で演出まがいのことをして、演劇の世界に進みたいと思ったこともあります。そんな健康優良児でした。小学校の先生が褒めてくれるのは将来を決定する大きなアドバイスになると思います。
2デコイチ(D51)で汽車通学。大人の本もどんどん読む
中学校は大阪市内の南中学校へ越境入学で汽車通学。一日往復3時間。デコイチ(D51)は煙と石炭カスを吐きまくります。制服の白の襟はすすだらけ。顔を突き出して物思いにふける時間。大人の本もどんどん読む時間。汽車はヤミ米を運ぶ屈強な大人たちに占拠されます。摘発されそうになるとコメをすべて外へ放出します。そのあわただしいこと。大阪みなみの同級生には芸者の子や心斎橋の老舗のボンボン、靴磨きの子もいました。私は社会派になっていきました。中学生の主張が新聞に載ると父親は「この子は社会党になるのかも」と言って新聞を同僚に見せまくっていました。私はテニス部で熱狂していました。かっこいい先輩もいました。
3「絶対仕事はやめない!」と決意
高校は両親も希望だった夕陽丘高校に進学。芸術を選択する科目がありました。音楽と書道と絵画から一つを選ぶのですが、音学はピアノがないからと考慮の外、絵画を選びたかったのですが、油絵具なんて高くて買えないとの一言で却下、書道になりました。新聞紙で練習・練習。家庭内では、元仕事を持つ専業主婦の母親のいらだち、不倫を繰り返す夫への怒り、離婚しても自立できない状況へのいら立ちが自分の将来とも重なって迫ってきました。私はますます革新的になっていきました。
「絶対仕事はやめない、結婚しても子どもができても仕事はやめない。離婚して子どもを十分育てられるような仕事に就く」。これは固く固く、決意していました。だから必ず大学へ行くと。
しかし大学へ行けば解決するようなことではなかったのです。もっともっと厳しさは明確になってきました。女性はほとんど結婚・出産で仕事を辞めるとか、子ども預けるところがないとか・・・・という現状が、母親大会へ参加するなどで分かってきました。
4 母の最後、「私より30年、新しい生き方をしてね」
その後、母親は卵巣癌になり「もう病院はいや、家で死ぬ」といって自宅療養。私は休学届を出して付き添いました。腹水から流れた血だらけのタオルを素手で洗っていて「これって、私もウツルのかしら」と恐怖。昔の癌は死に病でした。命尽き果てるという状態で苦しんで亡くなりました。まだ40代だったのです。「私は死んでもお墓はいらないから。白い百合が咲いたら思い出してくれたらそれでいいよ」「私より30年、新しい生き方をしてね」「保育所を作ってでも仕事を続けるという、その保育所でほんとは私も働きたい」と言って静かに毛布を引き上げて泣きじゃくていました。
私は、泣かずに朗らかに生きていきたい。私は健康に生きていきたい。私は幸せに生きていきたい。母を見送って決意した。素朴なフェミニスト誕生です。
(次回はこの続きを紹介させていただきます)
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